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内野 古くから献体運動に参加されておられた先生方にお集まりいただきこの40年の間に日本の献体運動がどう変わってきたか、非常に解剖体が不足していた時代が、法制化を機に潤沢になり、さらにそれが過剰であるという大学も出てまいりました。
私は献体運動を3期に分けることができると思います。第1期は創成期で白菊会が昭和30年にでき、その後次第に全国に献体の団体が生まれて横のつながりが必要になり、篤志解剖全国連合会が昭和46年に発足し、続いて48年には経済的バックアップという意味で財団法人日本篤志献体協会が生まれるというふうに万事順調に歩んできて、全連の運動の目標でありました献体運動の倫理の確立と法律の制度化が昭和50年代になりにわかに活発になり、昭和58年5月に第98回の通常国会で医学および歯学教育のための献体に関する法律が制定されたわけでありますが、ここで第1期は終わり、第2期の成熟期を迎え解剖学実習が潤沢に行えるようになって今や過剰時代を迎えて献体運動も第3期というべき大きな変換期にあるのではないかと思います。
日本解剖学会は明治26年に発足し、昨年はいろいろな100周年記念事業が行われました。特筆すべきは記念式典に皇太子、同妃両殿下をお迎えしたことでございます。皇太子殿下からは「献体という尊い行為が解剖学教育、ひいては医学教育に大きな役割を果たしてきた。多くの献体者に敬意を表する」という意味のお言葉があり、献体運動に携わってきた者が大変報われたというふうに思います。
それでは、まず創成期のころのお話を白菊会の倉屋会長に口火を切っていただき、亡くなられた方々などの思い出を含めていただければと思います。

 

創成期(昭和23年〜58年)

 

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倉屋 実は私の父が昭和22年に胃潰瘍を患いまして、2度手術して助かったんですね。で、自分に何かお役に立つことないだろうかと東大の解剖の藤田恒太郎教授1)にご意見をうかがったところ、実は実習用の遺体が足りなくて困ってるんだということを知ったのです。それでわしが死んだらともかくすぐ大学へ遺体を渡すようにということを昭和29年の12月に言われたんです。と同時に全国の方々に知ってもらうための運動なんかも起こすようにと遺言されまして、2月に亡くなり9月16日に今の白菊会が発足したんです。いわゆる名士の方々にお力をお借りしたいんだとお願いしたんですが、ご趣旨はまことに結構だしよく分かるけれども、自分にはそういう気持ちはないからとご返事をいただきましてね。
ただ二人の人が私たち3人で始めようじゃないかと言ってくれたんですよ。それで藤田教授のところに行ったら先生が私も仲間に入れてくださいと言われましてね。
それで30年の9月16日に東大で発会式、第1回総会を開いたんです。どうしたら一般の方に知ってもらえるだろうかというのが大きな問題だったんですけど、たまたま新聞記者で知り合いの人がいまして短い文章ですが記事にしてくれたんです。それから急に増えまして、そのことからだんだん広がってきたということなんですね。
私どもは医学の恩恵を被っているけれども、何にもお返しできないでいる。ところが死んでからでも役に立つんだったらこんないいことないじゃないかっていう呼びかけをしました。それがだんだんに皆さんに受け入れられて、こんにちに至ってるっていうことです。
内野 地方の大学の先生は倉屋先生が地方へ来て献体のことについて話してくれたことをありがたく感じてるんですね。山形大学の外崎昭教授2)は、今日ぜひそのことをお礼を申してくれと言われました。

 

倉屋 あ、そうですか。それはどうも。

 

内野 全国連合会を作ろうというのはいつごろから起こったんですか。

 

倉屋 昭和36、7年あたりじゃないかしら。佐藤(達)先生あなたがそのときに。

 

佐藤 まだ学生だった、実習やってたんですが。(笑)

 

内野 46年にできてますよね。

 

1)藤田恒太郎;(故人)東京大学解剖学教授
2)外崎昭;山形大学医学部解剖学教授

 

 

 

 

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